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日本橋駅周辺ってどんな街?【治安はどうなの?】街ぶらしてみた

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カテゴリ:エリア情報

日本橋駅周辺ってどんな街?街ぶらしてみた


西の秋葉原」と呼ばれ、オタクの聖地になっている日本橋
難波の隣駅ということもありガヤガヤした印象ですが、実は住宅街もあったりするんです。
ということで今回は日本橋を街ぶらして、その実態を観察してみようと思います!



↓動画でのご紹介はこちら!




"日本橋"とは?


元々、この日本橋周辺は「長町」と呼ばれ、紀州街道の一部である堺筋に面していたので、街道沿いには木賃宿(きちんやど、燃料代のみで宿泊できる安宿)や旅籠(はたご、現在の旅館の原点)が立ち並んでいたそうです。

やがて明治期に入り、長町裏の木賃宿には失業者生活困窮者が集まるようになり、大坂最大のスラムが形成されていきました。しかもこの木賃宿がかなり劣悪な環境で、コレラなど感染症の温床になってしまっていたそうです。

1903(明治36)年に大阪で第5回内国勧業博覧会が開催されることが決定すると、それに先立って長町裏スラムは一掃され、大阪市域を追われた木賃宿及びスラム街は南下し今宮村の釜ヶ崎に移住することになります。

↓釜ヶ崎の歴史はこちらで詳しくご紹介しております。

スラムが一掃され、木賃宿がなくなった後、第5回内国勧業博覧会の大成功の恩恵を受けた日本橋は商業地として発展、やがて古着屋骨董品から日用品などを扱う店が集まり、珍しい舶来品も出品されていたことから「掘り出し物の街」として賑わいました。

古物で賑わった日本橋はやがて古書店街に姿を変え、東京の神田と並ぶ古書店街として名を馳せることになります。特に関東大震災後、関東からの需要が高まり、古書店街は大きく発展しました。

やがてラジオ蓄音機などが普及し始めると、電気街としての側面も見られるようになります。

第二次世界大戦後、日本橋は電気街に姿を変え、復興していきました。



地名の由来となった日本橋は1619年に徳川幕府によって道頓堀に架けられた橋で、大坂三郷 (北組、南組、天満組の3つからなる自治グループ)において重要な12の公儀橋(幕府が管理する橋)のうちの1つでした。

明治〜昭和にかけて架け替えなどがあったものの、今も橋として人々の生活を支えています。

ちなみに東京にも日本橋(にほんばし)があるので混同されがちですが、実はそもそもの由来が異なっています。

大阪の日本橋(にっぽんばし)は「日本」が由来ですが、東京の日本橋(にほんばし)は「二本」からきています。
というのも、日本橋は江戸城の外堀と江戸湾を繋ぐことを目的として架けられた橋だったのですが、当初は粗末な木を「2本」渡しただけだったのでその名がついたそうです。※諸説あり

このように、どちらも幕府によって架けられた橋ではありますが、実はこの2つに直接的な関連性はないのです。




日本橋駅


1969年に開業した駅で、地下鉄の堺筋線千日前線が乗り入れます。
1970年には近鉄日本橋駅も開業しました。



味園ビル


それでは早速南西エリアからご紹介していきたいと思います。

こちらが味園ビルです。

味園ビル

1956年に建てられたこの味園ビルは、ビル内で営業していたキャバレー「ユニバース」を中心に人気を集め、70〜90年代半ばまでミナミ・千日前の歓楽街を代表する存在として大繁盛していました。

かつては和田アキ子さんやピンク・レディーのお二人などもダンスホールで働いていたことで有名です。

ユニバースは2011年3月に営業を終了、現在は貸しホールとしてライブなどが行われています。

螺旋階段を上がるとバーが密集するエリアになります。

バーが多数


広くても10坪ほどの、様々なコンセプトのバーが多数入っており、楽しむことができます。



裏なんば


日本橋の南西エリアは「裏なんば」と呼ばれ、飲食店やバーが軒を連ねる街となっているので、賃貸マンションはほぼありません

裏なんば

元々、裏なんばは倉庫家具屋さんが多かったのですが、某飲食店の店長さんが「この辺をもっと盛り上げていこう」とのことで裏なんばの飲食店マップを作成しました。

その当時はまだ11店舗ほどしかお店がなかったようなのですが、どんどん成長を遂げ、現在ではガイドブック1冊分の掲載数を持つほどの飲食街になっています。





オタロード


裏なんばを抜けて大通りを渡ると、オタロードになります。

オタロード

「オタロード」は通称で、正式名称は日本橋筋西通商店街と言います。

といっても、GoogleMAPにすら「オタロード」と表示されているのでほぼ正式名称と言っても過言ではないのかもしれません。

通りに「オタロード」の文字が。



オタロードにはカードゲームショップフィギュア店家電量販店などが立ち並びます。
また、道にメイドさんがずらりと並び、客引きをしています。

メイドさんが呼んでいる…hshs

メインストリートを少し中に入ると、「大阪初のメイドカフェ」と言われている「CCOちゃ」があります。

CCOちゃ

オタロードで人気なのがここ、アニメイトです

アニメイト

様々なアニメグッズの販売や、トレーディングカードゲームで対決できるスペースもあります。




路地


一本中に入ると、家電屋さん、電気屋さんが多い印象です。

電気屋さんが並ぶ路地




五階百貨店


路地を歩いて、ここが「五階百貨店」になります。

大阪名物 五階

「見たところ3階ぐらいしかなさそうだが?」とお思いの方もいらっしゃるかと思います。
しかし、実は事態はもっと複雑なのです!

こちらの画像に映る建物の正式名称は「大阪名物 五階」といいます。
ご安心ください、しっかり3階建てです。

では「五階百貨店」とは一体なんぞやと言いますと、これは地域名なのです。

1888(明治21)年、高さ31m、5階建てのパノラマタワー、「眺望閣」が建てられました。
当時の日本では2階建て以上の建造物はまだ珍しく、多くの観光客が集まりました。

すると眺望閣の周りには観光客向けの露店が展開しました。この賑わいを当時の流行語だった「百貨店」と組み合わせて「五階百貨店」と表したのがこの実にややこしい地名の由来です。

五階百貨店周辺では、嘘のように安価で商品が売られていたことや、戦後期には盗品の売買を行う悪質な露天商が居たことなどから「泥棒市場」と呼ばれていたこともあります。

現在は日本橋商店街(でんでんタウン)の一部になっていて、正式にこの区域を表す地名はありませんが、一部の建物は「五階」の名称を残し、現在に至るまでその歴史を残しています。




堺筋(でんでんタウン)


通りを抜けると「堺筋」に出ます。

でんでんタウン

この辺りは「でんでんタウン」と呼ばれ、電化製品を販売する店が軒を連ねます。

そもそもなぜ古書店街だった日本橋が電気屋街になったかといますと、冒頭に記述したように、ラジオ蓄音機の登場がきっかけだったと言われています。

古書店街として培った幅広い集客力や、学生文化人などの流行に敏感な客層の多さなどがきっかけとなって、国内でラジオや蓄音機が普及し始めるとともにこれらを取り扱う店が増え、少数ながら製造を行う店もでき始めました。

戦後、焼け野原になった古書店街は壊滅的なダメージを負いますが日本橋の復興は比較的早く、終戦の翌年には店が建ち始めます。

食糧品・日用品はもちろんのこと、戦前から取り扱っていたラジオ無線機真空管などの関連部品を取り扱う店が増えました。

混乱の中にあった終戦直後の日本は娯楽・情報が無かったので、ラジオは非常に人気がありました。
さらに進駐軍が民主化政策を進める上での教育手段としてもラジオの普及が求められていました。

しかしそうした需要が高まる一方で、ラジオやその主要部品である真空管は不足していました。

そんな中、軍の放出品の関連部品を使ってラジオを組み立てて販売する人が増え、日本橋ではラジオ部品を販売する「ラジオ屋」が繁盛しました。

このラジオ屋の繁盛を受けて食糧品店日用品店も続々とラジオ屋に転身、ラジオ屋が密集する日本橋は一大電気街に発展していきます。

昭和30年代、高度経済成長期家電ブームが起こると白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の所謂「三種の神器」の登場で国民の生活は一変、ラジオ屋がこれらの家電を多く扱うようになります。家電が安価で買えて、しかも種類が豊富とあって、多くの人がこの日本橋に集まりました。

昭和40年代以降はカラーテレビやエアコン、オーディオの登場など消費者のニーズに合わせて日本橋も電気街としてその都度発展、規模を拡大させていきました。

ジョーシンさんの本社があることからも「家電の街」だということが伝わってきます。

ジョーシン本社

昭和53年、電気屋街は「でんでんタウン」の愛称でさらに広く親しまれるようになります。
同時期にはウォークマンが大流行、平成に突入するとデジタル家電パソコンTVゲームが普及し、またしても日本橋は業態を変化させ始めます。

平成7年、Windows95の登場でパソコンブームの到来が目前に迫ります。

電気街としての日本橋が価格競争の激化、家電量販店の拡大、ネット通販の普及などが影響し次第に勢力を失っていく一方、専門性の高いパソコン・マルチメディア関連の店舗が急成長を遂げます。
これらに付随してゲームソフト・アニメ関連の店舗の進出も進み、平成10年代には現在の「オタクの街」としての日本橋が確立しました。

近年はジャパニーズアニメ・ゲームの人気が高まり、サブカル文化を求めて海外からいらっしゃる観光客が多く見られます。

でんでんタウンの通りにはメイドカフェ「@ほぉ〜むカフェ」があります。

@ほぉ〜むカフェ

ここはトレンディエンジェルのたかしさんが通い詰めていると明言されている@ほぉ〜むカフェの大阪店第一号となる店舗です。




南東エリア


続いて日本橋南東エリアに向かいます。

賃貸マンションが多い街

この辺りは日本橋駅周辺で唯一の住宅街で、賃貸マンションが多く建っています。

家賃相場は、ホームズさん調べで
1K 62,300円
1LDK 100,400円
となっています。

やはりなんばの隣とだけあって、比較的家賃が高いエリアとなっています。
築年数が浅い建物が多いこともその理由の1つかもしれません。

NSC美容専門学校など専門学校も多く、お一人暮らしで住まわれる方も多いようです。
治安の面も、よく「日本橋は治安が悪い」と言われる方もいらっしゃいますが、この辺りはそれほど悪いという印象はございません
日本橋の北側風俗街があったりしますので、その影響で日本橋自体の印象が下がっているのかもしれません。




御蔵後通り


少し北側に歩くと少し太めの通りに出ます。こちらが「御蔵跡通り(御蔵跡履物問屋街)」、通称「はきはきタウン」と呼ばれています。
「でんでんタウン」に「はきはきタウン」、可愛らしい名前が多い街ですね。

御蔵跡通り

最盛期には200軒以上の履き物屋さんが並んでいた通りで、現在でも数十軒の履き物屋さんが営業している履物問屋街です。

元々この地には天王寺村鋳銭所(高津新地銭座)があり、元字銭(ここで作られる寛永通宝一文銭のこと)が造られていました。
しかし支配人の不正などが原因で営業がうまく立ち行かなくなり、1741〜1745年という非常に短い期間の操業となってしまいました。

1752(宝暦2)年に江戸幕府によって「天王寺御蔵(高津御蔵)」という米蔵が作られました。しかしこの蔵は湿気がひどく米がだめになってしまうということで、難波に移転することとなってしまいました。

その御蔵の跡地ということで「御蔵跡通り」の名がついたのです。

その後は民間に払い下げられ「御蔵跡町」として人々が暮らしを送ってきました。

履物問屋街としての起源は大正初期に遡ります。
この頃、北日東町(現在はもう存在しない町で、御蔵跡通りから少し南の方にあった)方面には下駄屋が多く存在し、水路が通っていて木材の運搬が頻繁に行われていたこの地域では履物屋が重宝されたようです。

やがて昭和に入り、御堂筋の道路が建設されることになりました。当時は道幅6mの一般的な道路だった御堂筋を延長4km幅員44mのメインストリートに生まれ変わらせるという大規模な工事です。

この建設工事のため、御堂筋の履物屋は立ち退きを命じられてこの御蔵跡通りにこぞって移住してきたのです。

これによって御蔵跡通りは履物問屋街としてさらなる発展を遂げることになりました。

阪神高速沿いには「はきもの神社(羽呉神社)」もあり、いかに履物を主軸として発展してきたかが窺い知れます。





業務スーパー


さらに北側に歩いてくると、業務スーパー 高津店がございます。


業務スーパー

ここは日本橋駅近辺で唯一のスーパーになります。日本橋駅から徒歩約5分の位置にあります。




高津理容美容専門学校


業務スーパーの並びにはこちらの「高津理容美容専門学校」がございます。

高津理容美容専門学校

高津理容美容専門学校は1934年に「大阪文化理髪学校」として開校した歴史ある学校で、理容・美容・ヘアメイク・ネイル・エステを学ぶことができます。

よく厳しい学校と聞きますが、技術知識はもちろんのこと、礼儀マナーを2年間で身につけ、実際に美容師の世界に出ても即戦力として活躍できるようになる、「本気で美容師を目指したい!」という人にはぴったりの学校です。

実際に弊社のお客様で美容師の方がご来店なさった際に、「高津理容美容専門学校の卒業生は優秀な人材が多い」と太鼓判を押していらっしゃいました。





黒門市場


続いて、少し駅の方に戻って黒門市場に向かいます。

黒門市場

最近は海外の方が多く、この日もかなり賑わっていました。

市場は海外の方で溢れかえっている

黒門市場は、約580mのアーケード百数十(2019年の時点で150~60)の店舗が並ぶ商店街で、鮮魚青果精肉をはじめとした幅広い食材を取り扱っています。

起源は江戸時代、この地域の西寄りに「圓明寺」という浄土真宗の寺院がありました。
文政(1818〜1831)年間に、圓明寺の山門の前で鮮魚商人らが集まってを開き始めました。
この門が黒塗りのものだったことが「黒門市場」の名前の由来となっています。

ただ、まだこの時は寺名にのっとって「圓明寺市場」と呼ばれていました。
「圓明寺市場」が「黒門市場」と呼ばれるようになるのは大正時代が始まる頃になります。

1912(明治45)年、ミナミの大火が発生します。
難波周辺に甚大な被害をもたらしたこの火災の影響で、寺院・山門ともに焼失してしまいました。

大火の後、圓明寺は中河内郡矢田村(現在の東住吉区照ヶ丘矢田)に移転することになります。
寺院自体は移転したものの、「圓明寺の黒門」が市場の名前として引き継がれることとなり、この時から「黒門市場」と呼ばれるようになりました。
物自体は無くなったとしてもその名が残るほど地元住民にとってこの圓明寺の黒門は象徴的な存在だったのでしょう。

こうして現在の黒門市場の原型ができ、大正時代には中央市場を凌ぐ勢いで急成長を遂げました。

しかしそんな栄華を誇る時代も束の間、1945(昭和20)年3月13日深夜から14日にかけて第一回大阪大空襲が行われ、大阪の中心市街地の家屋が密集している地帯を狙った爆撃によって、黒門市場を含む周辺地域は焼け野原となりました。

そして1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾したことによって第二次世界大戦が終結します。
戦後、黒門市場跡地に仮設のバラックが建てられ、かつての黒門市場の商人達によっていち早く再建が行われました。

やがて「大阪の胃袋」「浪速の台所」として賑わいを見せるようになっていき、特に年末には多くの買い物客が訪れるようになりました。
1960〜65年には夜店が全盛期を迎え、テント式だったアーケードが鉄骨造の物に換わっていきました。

こうして見事復興を遂げた黒門市場は大阪有数の市場として繁盛するようになります。

2000年代以前は地元住民や市場関係者を相手にしたうどん屋さんや大衆食堂が軒を連ねた黒門市場ですが、2010年代に入ると鮮魚を扱う居酒屋や料理店が増えていきました。

また、2014年頃からはインバウンドによる海外からの観光客が増加、「日本人よりも外国人観光客が多い」という状況が常態化し、英語や中国語に対応した店が多くなりました。

こうしてインバウンドによって大きな恩恵を受けた市場ですが、今度は逆にその外国人観光客に依存した営業方針が裏目に出ることになります。

2019年12月、中国で発生した新型コロナウイルスが流行するとそれが一気に世界中に広がりパンデミックに発展、渡航の制限による観光客の激減によって黒門市場でも多くの店が大打撃を受けました。

2023年現在、新型コロナウイルスの感染が少しずつ縮小してきたことで海外からの観光客が戻ってきています。
撮影時も体感としてすれ違う人の9割ほどが外国人だった印象です。

しかし近年、外国人観光客に向けて値段を一気に吊り上げたことでネットでは批判の声が多く寄せられています。

1個2,500円のバフンウニ

1尾4,200円のロブスター

1万〜3万円台のカニ

2000円のいちご

パック入り1,500円でウニが売られていた木津市場(大国町編でご紹介)とは違って、かなり価格帯が高く設定されています。


このネット上の批判を受け、店側としては「店や従業員の生活を支えるためには仕方のないこと」「外国人観光客が来るようになる前から日本人客は減っていた」との意見が出ているようです。
実際に2000年代は大型スーパーの参入、インターネットショッピングの普及などで日本中の個人商店や商店街などが大打撃を受けました。

そんな中、大勢で来店して大量にお金を落としていってくれる外国人は、店側からすればさぞありがたいものだったのでしょう。

近年のSNS上では「指摘はするがお金は落とさない」スタンスの人が多いように感じます。中途半端な当事者意識で批判することは営業の幅を狭めることになり衰退を招くだけだと思うのですが…。

とはいえ、先程ご紹介した業務スーパー以外に目立ったスーパーがない日本橋駅付近の地元住民からすれば歩いていける距離で新鮮な食材を安価で手に入れる手段が少なくなっていくのは非常に不便で寂しいことだったでしょう。


安心してください、黒門市場内には一般的な価格のスーパーもあります。

スーパー。値段は普通


少し歩いていると、大国町編でもご紹介した「カフェ&クロワッサン専門店 and≪&≫」さんがありました。

クロワッサン専門店  and


「カフェ&クロワッサン専門店 and≪&≫」さんは現在、

・南船場(Sammy Pooh!)
・上本町
・大国町
・黒門市場
の4店舗が営業中です。




末広湯


黒門市場を抜けると、末広湯という銭湯がございます。

末広湯

末広湯は創業75年の老舗浴場です。タトゥーOKなのが特徴で、スチームサウナが名物です。朝6:00〜深夜1:30まで営業していらっしゃるので、朝風呂でリフレッシュしたい方や深夜にフラッと立ち寄りたい方にもおすすめです。
気軽に入れてお得な手ぶらセット(650円)もあります。





北東エリア


続いて、千日前通を渡って北東エリアをご紹介していきたいと思います。

北東エリアの風景

この辺りは、地名でいうと中央区 日本橋1丁目、オトナなホテルが立ち並ぶピンク街です。住環境には適さない地域なので賃貸マンションは少ないです。

マンションの一室を風俗店の受付として使用し、近くのホテルまで歩いていってサービスを行う、というのが一連の流れだそうです。

夜には受付を終えてホテルに向かう人たちが多く見かけられます。


この建物も有名なお店が入っています。

近年は風俗店も海外の利用者が多いようで、法律的に風俗の営業が難しい国や地域の方が日本の観光の一環としてこういったお店に出入りしているようです。日本人が大麻を吸うためにオランダやタイに行くのと同じですね。

日本橋だけでなく飛田新地なども外国人が増えているようです。飛田新地にいたっては家族連れで観光していたりするという情報もあります。どう考えても教育に良くないと思うのですがそれは…(困惑)

本人達に悪気はないのでしょうが、働いている側は冷やかしを非常に嫌うのでイメージもよくありませんし、それが原因でトラブルになったりすれば双方にとって損でしかないので、いくら相手がサービス業でニコニコしているとはいえ入店もしないお店の前をあまり不用意にうろつかない方が良いでしょう。まぁそれをここで言っても仕方ないかもしれませんが。

また、一部の国の観光客はマナーが悪すぎると問題視されていたり、最近都心部を中心に流行している梅毒淋病なども海外からもたらされたものなのではないかと言われています。

海外からの観光客のおかげで大きく経済が回るのは嬉しいことですが、文化の違いによるトラブルや感染症の蔓延など、防ぎ切るのが難しい諸問題には頭を抱えるばかりです。

そもそも外国人観光客問題を抜きにしても、風俗店・風俗街自体グレーな存在であり、犯罪やトラブルの温床にもなりやすいのであまり良い印象を抱く方は少なく、日本橋が治安の悪い街と言われるのもこの風俗街の存在が大きいでしょう。





日本橋、道頓堀川


少し北西方面に歩くと、地名の由来にもなった「日本橋」があります。

「にっぽんばし」の文字

さらにこの日本橋の下には道頓堀川が流れています。

道頓堀川


道頓堀川は東横堀川木津川を繋ぐ全長約2.7kmの川で、1615年に完成しました。

名前の由来はこの道頓堀川の開削を担当した商人の「安井(成安)道頓」(1533〜1615)です。

大坂城の外壕の掘削や、猫間川の河岸整備の功績を讃えて豊臣秀吉から大坂城南の土地を与えられた道頓は、「城南の開発には河川の掘削が不可欠」と考え、豊臣氏の許可を得て私財を投じて水路の開発をスタートしました。

しかし掘削中だった1615年、大坂夏の陣に巻き込まれ、秀吉の恩義に報いるため西軍に味方しますが、大坂城内で討ち死にしてしまいました。

大坂の陣の後、従兄弟の安井九兵衛(道卜(どうぼく))平野藤次郎(安藤藤次)らが業務を引き継ぎ、認可を得て道頓堀の掘削を進め、1615年11月、ついに完成を迎えました。この時は「新川」「新堀」「南堀川」などと呼ばれていました。


認可を得る際に徳川氏からの人夫提供の誘いがあったもののこれを断り、久宝寺の百姓を招集して自分たちの力で完成させた、といわれています。
安井家の財力や大阪の町人の心意気が伝わってくるエピソードですね。

徳川家康の特命により大坂城主として城下の復興を任されていた松平忠明(家康の外孫であり養子)は、道頓が多くの私財を投じたことやその功績を讃えてこの出来上がった水路に「道頓堀」と命名しました。

道頓堀完成後、大坂の陣の際に徳川方に加勢し大きな功績を上げたことで代官になっていた平野藤次郎は台湾や交趾(現ベトナム)との朱印船貿易に従事することとなります。

これにより道頓堀周辺の開発は安藤道卜に任されることになりました。
道卜は1626年頃、南船場から芝居小屋を誘致し、1644年には8軒の芝居小屋が並びました。
また、各芝居小屋には安井家専用の見物席、通称「安井桟敷」が設置されていました。

芝居街として発展した道頓堀で、特に「角座」「浪花座」「中座」「朝日座」「弁天座」の5つは「道頓堀五座」と呼ばれ、特に賑わっていました。

五座は1999(平成11)年の中座の閉館を最後にその歴史に幕を閉じましたが、現在でも松竹座国立文楽劇場なんばグランド花月など、この道頓堀を中心としたミナミには演劇を上演し続けている劇場が多く、現在も芝居文化の中心地であり続けています。


また、現在では若者が飛び込む川としてもよく知られています。

道頓堀に飛び込む人、それを撮影する人々


これは2018年のW杯の際の写真です。日本が格上のコロンビアに勝利したことに喜び道頓堀にダイブする人が続出しました。


この道頓堀川の飛び込みが始まったのは1985年、阪神タイガースがリーグ優勝した日でした。


落語家の「桂福若」さんはその日、友人と阪神と巨人、どちらが優勝するか」という賭けをしており、大の巨人ファンだった福若さんはもし阪神が優勝したら、道頓堀に飛び込んだる!」と啖呵を切ってしまいます…。


結果、阪神が21年ぶりのリーグ優勝を果たしたことにより福若さんは賭けに負け、罰ゲームとして戎橋から道頓堀にダイブしました。これが道頓堀ダイブの始まりです。


日付が変わる頃には福若さんが飛び込んだのを真似てか、阪神ファンが次々と道頓堀に飛び込んで行きました。


また、狂喜に駆られた阪神ファンは、助っ人外国人として活躍したランディ・バースに見立ててケンタッキーフライドチキン道頓堀店カーネルサンダース像を強奪胴上げの末に道頓堀に投げ込んでしまいました。ちなみにこのカーネルサンダースを投げ込んだのは福若さんの高校の後輩だったそうです。


さらにこの時、近隣にあったレストラン「くいだおれ」の店頭に飾られていた「くいだおれ太郎」も胴上げの標的にされますが、当時の営業部長・岡田則一氏の必死の抵抗によって死守されました。


この後カーネルサンダース像が浮上することはなく、川底の清掃作業でも発見することができませんでした。

すると翌年から阪神タイガースは急激に弱体化17年間にわたってリーグ優勝を逃すことになります。

阪神ファンはこの事態を「カーネルサンダースの呪い」だと受け止め、都市伝説化していくことになりました。


事件後、道頓堀店のカーネル像はしばらくその姿を消しますが、阪神タイガースが7年ぶりに優勝争いに食い込んだ1992(平成4)年、満を辞して2代目が店頭に登場ます。今度は盗難防止のために台座をボルトとネジで固定されていました。


しかし結局この年の阪神は3位に終わり、再びこの後10年ほどリーグ優勝から遠のきます。

KFC道頓堀店も1998(平成10)年に閉店を迎え、初代カーネルの帰還を見ることはありませんでした。


2009(平成21)年3月10日、道頓堀の障害物の調査・撤去を任されていた南海辰村建設の作業員によって、戎橋の下流200〜300m付近の川底でついにカーネルの上半身が発見されます。


ヘドロにまみれ、メガネや手首も外れてしまっていたものの、カーネルはその原型を留めていました。翌日には手首下半身も発見され上半身との合体を果たしました。

一方でメガネと両足首、左手は見つからず、流されたか破損してしまったと考えられます。


発見後にはKFC日本法人の社長に引き渡され、展示されるなどで各地を転々としていましたが2017年以降は本社社屋にて展示されています。

2021年現在、老朽化が激しいため、これ以上の移動は厳しいといわれています。


このように、ことあるごとにヒトやモノが飛び込んだり投げ込まれたりしていていますが、道頓堀はヘドロが堆積しガスが発生するような汚い川でした。

人々は飛び込むたびにヘドロにまみれ悪臭を放ち、「飛び込んで後悔した」という方も多かったようです。


現在では川の浄化活動も行われ、ピークに比べるとかなり水質も改善してきましたが、飛び込みには以下のような危険性があります。


・傷口から大腸菌などの細菌が入り込み、病気になったり体調を崩したりする

過去に投げ込まれたゴミで切り傷や打撲などの怪我を負う

水温が低いため急激な温度変化で心臓麻痺を起こす

・水深が3.5mほどあるため足がつかず溺れる

など



実際に過去には飛び込みによる死者も出ています。


そもそも普段から道頓堀には酔っ払いが多く、何がとは言いませんが道頓堀に放出している人もよくいます。

暗く、深く、そして汚い川は危険性が高すぎます。

カーネルサンダースのように水底で助けを待つことにならないよう、その場の雰囲気に流されず一度立ち止まって考えてみるべきでしょう。






北西エリア


さらに西の方に向かい、北西エリアを見ていきましょう。


道頓堀



北西エリアは道頓堀(河川ではなく繁華街・町名としての道頓堀)があるので、多くの人が訪れるエリアになっています。




観光客も戻ってきており、外国人の方も多いです。



人気のおでん屋さん「たこ梅」がありました。

170年続くおでん屋さんで、美味しいおでんとお酒がいただける評判です。


店の前の提灯に「関東煮」とありますが昔から関西のことを「関東煮/関東炊き(かんとだき)」と呼んでいます。






相合橋筋商店街


少し南の方に歩くと相生橋筋商店街があります。


相生橋筋商店街


正式名称は相生(あいあう)橋ですが、地元民からは愛称として「あいあい橋」や「あいおい橋」などと呼ばれています。

人で溢れかえる道頓堀と違って、相生橋筋商店街は繁華街から少し外れたところにあるためか、落ち着いた雰囲気です。


商店街内は飲み屋が多く、よく吉本の大御所芸人さんも飲みに来られるそうです。






阪町


また少し日本橋の方に歩いていると、阪町というエリアになります。


阪町の風景



この辺りはスナック街になっています。

かつては茶屋見世物小屋が集まって賑わいを見せ、歌舞伎・浄瑠璃に携わる人の居住区に指定されていた時期もあります。




少し北に歩いていると何やら行列が…


かつ丼 ちよ松


ここは「かつ丼 ちよ松」というお店で、元力士の店主が揚げる厚さ5cmの「日本一厚いトンカツ」がSNSで話題となっています。この日も20人ほどの行列ができていました。



デニス・ロッドマン風のわんちゃん


ワンちゃんがリードもつけずにトコトコ走っていました。

野良犬というわけではなく近くに飼い主はいましたが、安全のためにリードはつけていただきたいものですね。



こちらの北西エリアも飲み屋が多く、住宅はあまりありません



千日前通の方に降りてきますと、これまた行列が。


玉製家


ここはおはぎ屋さんの「玉製家」さんです。

この日も14時のオープンを心待ちにする人たちが並んでいました。

つぶ餡こし餡きなこの3種類があり、注文を受けてから仕上げるこだわりのおはぎです。

どの味も賞味期限当日〜翌日になっているので贈り物よりは自分用家族用に向いています。また、硬くなってしまうので冷蔵庫は厳禁です。





まとめ


ということで、本日は日本橋駅周辺をご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか。


その時代にあった客のニーズに合わせて安宿街掘り出し物街古書店街電気街オタク街と業態を変化させて栄えてきた日本橋。今後はどのように変化していくのでしょうか。

また、海外からの観光客が戻ってきた黒門市場道頓堀などの繁華街はインバウンド消費に依存しすぎている現在の業態をどう変化させていくのでしょうか。

日本橋の今後に期待が膨らむ街ぶらでした。


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徒歩14分

スプランディッド難波元町DUE

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賃料
7.45万円
種別
マンション
住所
大阪府大阪市浪速区元町3丁目
交通
大国町駅
徒歩5分

スプランディッド難波元町DUE

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賃料
6.95万円
種別
マンション
住所
大阪府大阪市浪速区元町3丁目
交通
大国町駅
徒歩5分

ワールドアイ難波南ポルタ

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賃料
6.67万円
種別
マンション
住所
大阪府大阪市浪速区大国1丁目
交通
大国町駅
徒歩7分

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